嫌いな言葉その2「正義」

↓そもそも「正義」ってなに?と言う話をwikipediaさんに聞いてみると
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E7%BE%A9
「正義(せいぎ)とは、社会や人間をあるべき姿に正そうとする、あるいは保とうとする信念。道理、道徳に適っており、正しいこと。」と書かれていた。
つまり、単純化すれば「ある特定の社会」における「あるべき姿」を「保とうとすること」と言う事になる。


よく日本では殺人とは「絶対悪」(つまり、正義ではない物)とされる。
ここで、「ある特定の社会」を「中世キリスト教社会」や「イスラム原理主義社会」にした場合どうだろうか?
どちらも、宗教として対立する異教徒の殺害を聖なる行為として「正義」として認めている。


現代に戻って、「現代日本社会」にするとどうなるだろうか?
ここでも、実は殺人は「絶対悪」ではなく、正義の行為として認められている。
つまり、「死刑制度」である。


「死刑制度」では単なる殺人を「死刑」という呼び名にかえて、社会の「正義」に反するものにたいする刑罰とすることで、殺人を「正義」としている。


多少、時代を遡れば日本とアメリカはそれぞれが「正義の戦争」としての第二次世界大戦を戦っている。
正義とは「ある特定の社会」における「あるべき姿」を「保とうとすること」とするならば、第二次世界大戦とはお互いの国にとっての「あるべき姿」を守るための戦争である。
これらのことからもう気がついている人もいるだろうが、「正義」とは極めて相対的な物であり、「自分にとっての正義」と「他人にとっての正義」が必ずしも一致する物ではない。


そして、往々にして「正義」を語る人間のその「正義」自分にとって都合の良い「正義」である。
自己の中で確固たる「個人にとっての正義」を持つことには私は何も言わないし、そういう意味での「正義」は肯定しても良い。


しかし、ひととき「個人にとっての正義」を「全体にとっての正義」であると言い出したとき、私にとってその「全体にとっての正義」は信用出来ないし、それを語る人間もまた同様である。
私は、「全体にとっての正義」は存在しないと考える、なぜなら一人でもその「正義」に対して疑問を持つ人間がいれば、それは「全体にとっての正義」ではなく「多数にとっての正義」だからだ。


「多数にとっての正義」とはつまり、民主主義である。
民主主義を完全に否定することは、自分にはできない。
ただ、真に偉大で、公正かつ全てにとって正義を行える、理知的な指導者がいる場合は独裁制がもっとも最善の政治とも言える。
・・・しかし、そのような物は存在しない。


それはともかくとして、私は「真の正義」、「全員のとっての正義」と言う物は存在していないと確信しているため、「正義」と言う言葉は嫌いである。